オバマ大統領の広島訪問をどう受け止めるか?
2016年5月27日、オバマ氏がアメリカ大統領としては初めて広島を訪問しました。「初訪問」ということからこのところの大ニュースになりましたが、その目的は「犠牲者の慰霊」ということであり、「謝罪はしない」ことが事前に報じられていました。そしてオバマ大統領は当初の予定を上回る17分間のスピーチを行いました。この出来事をどう受け止めるべきか?を少し考えて見たいと思います。
私にとって、「原爆」は特別の意味があります。父親の両親は1945年8月6日広島市内で爆死しています(遺品があるだけでふたりとも遺体は発見されていません)。もともと私の両親は広島出身であり、両親の多くの親類の人たちが被爆しています。私の母親は現在90歳ですが、父親の妹を探しに8月8日広島市内に入りました。いわゆる「入市被爆」としての「被爆者」です。父親の妹は爆心からわずか450mの日銀の建物内で被爆し、奇跡的に生き残りました。私も幼い頃から母親から当時の話をよく聞かされてきました。私の誕生日は1948年8月6日。偶然でしょうがやはり特別の思いがあります。 このような経緯からか、原爆問題については学生時代から非常に強い関心がありました。大学時代は広島の原水禁大会に毎年参加していました。誕生日は毎年広島の集会場で迎えていました。 「原爆」そして「核問題」については今でも私の最大の関心事の一つです。 ですから、核兵器の問題については言いたいことは山ほどあります。しかし、言うべきことはただ一言です。「核兵器はいかなる理由があろうとも、その存在は断じて許されてはならない。」ということです。
最近実に興味深い本を読みました。『核の戦後史』木村朗+高橋博子著(創元社 2016年3月10日発行)です。様々なことを教えられました。「オバマ大統領は決して謝罪しない」ということも理解できたように思います。2009年4月5日、オバマ大統領はプラハで「核兵器を使用した唯一の国の責任として“核廃絶”を訴える」と宣言しました。そうであれば、その使用の対象となった国の被害地を初めて訪れたにもかかわらず、何故「謝罪」をしないのか……、アメリカのスタンスは1945年と基本的に変わっていない、からだと思います。
一般的に「謝罪」という場面はふたつの場合が考えられます。ひとつは「過失」によって人に被害を与えた場合、あとひとつは「故意」に相手方を傷つけた場合です。私は、前者の場合は基本的に「謝罪」は受け容れるべきと思います。「誤って人を傷つけてしまった、申し訳ない。」その言葉が真意に基づくものである以上、再び過ちを繰り返させないためにも、その謝罪は受け容れるべきでしょう。しかし後者、即ち「故意」によって人を傷つけた場合は話は違います。人に危害を加える積もりでその意思に基づいて人を傷つけたのですから、本来は「ごめんなさい」では済まされないはずです。そのような行為に及んだのはその人の確信に基づくわけで、それについて「謝罪」する、ということの意味は、その「確信」が間違っていた、ということを真摯に認めた上でなければ「謝罪」にはなりません。何故そのような「確信」に至ったのか? その「確信」は何故誤りなのか? 今、その確信の誤りを認めた上でいかなる考えを持ち、いかなる行動をしているのか? ……等々、納得ができて初めて「謝罪」を受け容れることができます。
オバマ大統領は決して謝罪しない。それは、アメリカという国家が1945年原爆を投下したのは「確信」に基づくものであり、その「確信」においては現在でもその正当性を否定していないからです。またその「確信」の誤りを認める意思が全くないからです。オバマ大統領が個人としてどのように考えているかはともかく、アメリカが国家として謝罪することは考えられません。 広島への原爆投下により、1945年内に命を奪われた人は14万人にのぼると言われ、長崎では10万人と言われます。これだけの大量殺人をわずか2発の爆弾で実行した……とんでもない話です。アメリカ人軍属が1人の日本人を殺害した(このことはもちろんのこと断じて許せない行為です)ことに対する怒りを考えれば想像を絶します。 アメリカがあの時期に何故日本に原爆を投下したのか? 様々語られています。アメリカで当時言われていたことは、日本本土決戦となればアメリカ兵だけでも100万人以上の命が失われる可能性があった、パールハーバーに対する報復としては当然……このあたりが一般的であったでしょうか。しかし、1945年5月ドイツが降伏する前の段階でも原爆は完成していました。何故にドイツに原爆を投下しなかったか? ドイツも原爆開発を進めており、もしドイツに原爆を投下すれば何らかの放射能兵器による報復があることを恐れた、という見解、ヨーロッパ大陸への投下による放射能被害を配慮した、という見解、様々あるようですが、日本では「東洋人(日本人)に対する差別」という見方が強いように思います。 前記の「核の戦後史」では次のように解明されています。 1945年7月26日に発表されたポツダム宣言の時点で日本の降伏は必至の状況でした。連合国(というかアメリカ)にとっては、「戦後」が最重要の課題でした。そこでの最も重要な要素は「ソ連」の存在です。「戦争の早期終結」のためにアメリカはソ連の対日戦争における参戦を求めていました。しかし、「戦後」の日本を想定したとき、日本の占領支配においてソ連に先を越されるわけにはいきません。当時の日本の為政者が「国体護持」を条件として降伏を模索していたことは明らかです。アメリカも「天皇制存続」を念頭においていたようです。そうであれば、日本の降伏についての現実的な協議による解決策は存在していました。しかし、アメリカは「ソ連に先を越されない」方策を優先しました。8月6日の広島への原爆投下です。そして、8月8日にソ連は日本に対し攻撃を開始します。ソ連の仲介による「終戦」協議に期待をかけていた日本の支配層は、この時点で「無条件降伏」を覚悟したと言います。しかし、アメリカは尚も8月9日長崎に原爆を投下しました。広島に投下された原爆は「ウラン型」、長崎は「プルトニウム型」です。前者は濃縮ウランの製造技術、後者は原子炉の開発に裏付けられたものです。アメリカはこれらの原爆製造レベルを世界に(特にソ連に対し)誇示したかった。そしてそれは“成功”しました。数十万人の命が失われることは勿論想定内であったでしょう。
結局、アメリカの日本への原爆投下は“戦後”を見据えた対ソ連戦略と見るのが真相だったのだと思います。
原爆には二つの側面があると思います。 ひとつはそれまでになかった規模の大量破壊兵器として、ひとつは放射能兵器(核兵器)としての側面です。 まず前者の側面です。大量破壊兵器により標的にされるのは軍隊だけではありません。当然一般市民が犠牲になることを想定しなければなりません。つまり「無差別爆撃」です。この無差別爆撃の思想は以前から存在していました。最初の無差別爆撃は、1937年4月のナチスドイツによるスペイン・バスク地方の都市ゲルニカの爆撃です(これを描いたパブロ・ピカソの大作「ゲルニカ」は有名です。私もスペインのプラド美術館で観た印象が今でも忘れられません。)。そして第2次大戦では、イギリス軍がドイツのドレスデンへの絨毯爆撃を行っています。またアメリカ軍は東京大空襲を始め日本の多くの年を無差別爆撃しています。日本も同様の行為に及んでいます。重慶爆撃です。南京から移された中国の首都であった重慶に対し、日本軍は1938年2月から1943年8月まで、5年半にわたり200回以上の無差別爆撃を行いました(この重慶の爆撃については前田哲男さんの『戦略爆撃の思想』(凱風社)と題する著書があります。私はこの本は名著だと思います)。こうした無差別爆撃の延長線上に原爆投下があります。無辜の民が大量に殺害される、という事態は何があっても許されてはなりません。しかし、この犯罪は、ドイツも日本もイギリスも犯してきたことで、その最たるものが原爆投下であったわけです。従って、私たちは大量破壊兵器としての原爆使用を非難するのであれば、同じ意味で日本の重慶爆撃を深刻に検証する必要があるでしょう。 後者の核兵器としての側面はそれまでの兵器とは質的に異なった側面です。その意味でアメリカの「壮大な実験」であったのでしょう。しかしこの点については、1899年に採択されたハーグ陸戦条約の23条1項で「毒、または毒を施した兵器の使用」を禁じていたことを看過することができません。また同条5項では「不必要な苦痛を与える兵器、投射物、その他の物質を使用すること」を禁じています。いわゆる生物化学兵器はこれに当たります。原爆がここで禁止された兵器に該当するのは明らかでしょう。しかし第2次大戦後も、この点については「違法」、即ち戦争犯罪とはされませんでした。アメリカは戦後、広島・長崎への原爆投下による影響の調査を行っています。その調査において、放射能による被害は極力公にされませんでした。アメリカは1947~1948年、広島と長崎に「原爆傷害調査委員会」(ABCC:Atomic Bomb Casualty Commission)を開設しました。後の(1975年以降の)「放射線影響研究所」(放影研)です。ABCCは原爆投下による人体への影響を調査することが目的ですから、放射能による被害を受けた市民は“調査”の対象ではあっても、救援・医療の対象ではありませんでした。ABCCなどの調査による結果の全てが公表されているわけではありません。アメリカにとって都合の悪い内容は公表されていないと言われています。それは放射線による深刻な人体への影響です。遺伝的影響についても調査はされているようです。このような放射線による人体への影響の真相が公表されず、ひた隠しにされている事実は、1954年のビキニ環礁でのアメリカの水爆実験による被害に対するアメリカの対応と通じるところがあります。ビキニ環礁での水爆実験についてはアメリカは日本政府に対し200万ドル(当時の金額にして約7億2000万円)を支払ったとのことですが、それは「賠償金」ではなく「好意による見舞金」という名目であったとのことです。第5福竜丸の久保山愛吉さんが亡くなられ、大きな社会問題になったことから、完全な隠蔽はできなかったのでしょうが、漁業に従事していた多くの人たち被害の実態はひた隠しにされました。そして日本政府はこれに追随しました(この問題が社会問題となり、労働災害の申請、そして訴訟に至ったのは2016年になってからです)。
戦後の東京裁判で、日本の行った重慶への無差別爆撃、731部隊の生物化学兵器のための人体実験等は裁かれないままでした。連合国(アメリカ)がこれを戦争犯罪とするならば、結局は“原爆”の犯罪性が浮き彫りになるからでしょう。
アメリカは世界に先がけて原爆を開発し、それを使用しました。広島・長崎への投下は“確信”によるものです。戦後を見据えた世界戦略がその本質です。現実に戦後の冷戦構造の中で、核軍拡競争はひたすらヒートアップしました。冷戦終結の段階で世界で7万発にも及ぶ核兵器が存在したと言います。世界の全人類を何度か殺害できるだけの兵器です。この核軍拡競争においてアメリカが常に優位に立とうとしてきた結果です。冷戦終結後確かに米ソの間で核兵器の削減交渉が進みました。しかし今でも1万発をこえる核兵器が存在します。アメリカは今は「核抑止力」「対テロ」の名目で核兵器を正当化しています。オーストラリア等の提唱する核兵器禁止条約には明確に反対をしています。その核の傘の下にある日本も追随しています。国連において、核兵器禁止条約への対応について、メキシコの代表から日本政府は厳しく詰め寄られました。日本政府の答えは、北東アジアにおいては安全保障を確保する上では核兵器の存在は否定できない、というものでした。一体「唯一の被爆国」はどこに行ったのでしょうか?
アメリカが1945年に2発の原爆を投下した時の“確信”は全く揺らいでいません。 オバマ大統領が「謝罪」しないことは当然といえるのでしょう。もし「謝罪」をするとすれば、その“確信”が誤っていることを認めることを意味します。つまり、今のアメリカの立ち位置を否定することを意味します。オバマ大統領が如何に「人道的」立場をとっても、アメリカという国家を代表する立場の人間としては、断じて謝罪はできないことです。 このことは、広島における今回のスピーチに象徴的でした。彼は冒頭、「空から死が降ってきて世界が変わりました」(“death fell from the sky and the world was changed”)と述べました。その後も彼は、戦争は如何に悪であるか…と語り続けました。しかし最後まで、アメリカがわずか2発の原爆で20万人を超える人たちの命を奪ったこと、そして今はもっと強力な核兵器を7000発以上保有し続けていることについては触れようとしませんでした。それに触れると、次に出てくる言葉は「謝罪」しかありませんし、また現在アメリカが持っている核兵器を全て廃棄することを語らざるを得ないからです。結局最後まで、“戦争”についての一般的で抽象的な話、しかもあたかも他人事のような視点からの話に終始しました。「核廃絶」とはほど遠いものでした。
しかし、いずれ「謝罪」をしなければならない日が来るはずです。その時は、日本政府も真摯に謝罪しなければなりません。5年以上も続けた重慶爆撃、そして戦後、「唯一の被爆国」と自称しながらひたすらアメリカの核戦略を支持し、その庇護の元に核兵器の存続を認めてきたことも、人民にひれ伏して謝罪すべきでしょう。
私は、オバマ大統領の広島訪問は、大いに評価します。今の状況で、つまりアメリカの基本的な核戦略が1945年と変わらない状況で、口先だけで「謝罪」するとなれば逆に訪問の意義を減殺します。改めて、アメリカの原爆投下の意味は何であったかのか、そして「核兵器」とは一体何なのか、ということを考えさせてくれるきっかけを与えてくれた、という意味で評価すべきでしょう。私は、オバマ大統領が、世界で最初の被爆地で今回のようなスピーチしかできなかったことを深刻に考え、大統領の座を去った後も核廃絶に向けた彼なりの努力を続けてくれることを期待するだけです。
最後に、触れることも空しくなりますが、そこにただ付いていっただけの安倍首相の言葉の何と空疎な、その場限りの口先だけの発言であったことか、その存在の何と情けないことか……。